熊野本宮(大社)

 熊野本宮大社の熊野牛王

 一遍上人絵伝(第三巻一段) 中辺路の山中で熊野権現に出会う。

 一遍上人本宮大社証誠殿で権現より信託を受ける。

 一遍上人本宮大社より熊野川を下り速玉大社へ向う

 熊野本宮大社並びに本社古絵図

大正14(1925)年頃,官幣大社 熊野座神社

 祓戸より坂道を下って右手に杉の森があるのが現在の熊野坐神社(本宮大社)である。

本社正面より石階段を下りて県道に出れば、右手音無川、橋を渡って左側熊野川のほとりに行く小路から旧社址地に入ることが出来る。

 御幸の時はこの道を川の方から入られたものであって、社殿は東北に向って建っていた。今も石積みの台地がる。

 本宮御所

 熊野本宮の昔の姿

 旧社地は浄域として周囲に石垣がめぐらされていた跡がある。大洪水で流されたものであろう。

 本宮の十二所の社壇は上下八社殿と本社三棟にして建っていた。その前に大きな礼殿があった。

 古来上下の信仰の篤い熊野三山の一つで、上、中、下の三社よりなるので熊野三所権現といわれ、十二殿に十四柱の祭神が鎮座するので熊野十二所権現とも称される。本宮の主祭神は家津御子で、新宮の速玉之男、那智の熊野夫須美に対する。
 熊野川の中洲が旧社地で、明治22年の大水害に遭い、現在地に移つた。流出を免れた上四社と下四社は石祠で旧社地にある。

 

大日山から熊野本宮大社の森と旧社地

国道168号線から本宮旧社地を望む

旧社地にひっそりとしずまる石祠

昭和46年本宮旧社地に建てられた一遍名号碑

熊野本宮大社

法施の声ぞ尊さ
南無日本第一大霊験熊野参詣
宴妾曲抄
熊野本宮旧社地

 祓殿王子の南側の森は、現在の熊野本宮大社の境内である。この森の横の坂道を下れば、国道168号線に出る。そこから少し下流の熊野川・音無川・岩田川が合流する中州に、島のように見えるこんもりとした森が、熊野本宮の旧社地である。
 かつては、この森の中に幾棟もの社殿が建ち並んでいたが、明治二十二年八月の大洪水で、中四社・下四社・摂末社・神楽所・能舞台・文庫・宝蔵・社務所・神馬合等を流失し、社殿は軒まで水没、境内三七二坪が決潰した。幸いに倒漬・流失を免がれた上四社本殿などを、同二十四年、現在の社地に移したが、建造物の規模は以前の八分の一になっているので、もとの本宮がいかに豪壮森厳であったか想像に難くない。
 本宮はもともと家津御子ひと柱を祭った神社であったが、後に「結び」と「早玉」の二神を加えて「三所権現」と呼び、濃厚な習合思想の影響により、これに若宮・禅師宮・聖宮・児宮・子安宮の「五所権現」、さらに一万眷属十万金剛童子・勧請十五所・飛行夜叉・米持金剛童子の「四所権現」が配祀され、合わせて「熊野十二所権現」と称せられた。
 正安元(1299)年に描かれた一遍聖絵(歓喜光寺本)の本宮絵図は、社殿の配置をつたえる現存最古のもので、しかも写実的に表現されているから、これにより当時の様子を知ることができる。
 十二所権現は平安時代後期にはすでに成立し、御幸時代の境内の様子は、聖絵のそれとほとんど変わっていないようだ。江戸期の建物図も同じで、この社殿配置は数百年の永さにわたり、忠実に守られていたのであろう。
 京都を出て三〇〇キロ、二一〇日あまりの仮寝を重ね、わけても中辺路の難路を踏み越えて、ようやく目的地にたどりつき、森厳にして華麗な本宮をまのあたりにした人々の感激は、格別のものであったにちがいない。藤原定家はこのよろこびを「山川千里をすぎて、遂に宝前に奉拝す。感涙禁じかたし」と記している。
 ところで国道東側の鳥居跡から橋を渡り、旧社地に通ずる参道は後世に設けられたもので、御幸道はいまの本宮大社の入口から少し下流の国道の東側を通っていた。

 旧社地の広庭には、十二所権現のうち、流失した中四杜・下四社が、二つの石の祠としてまつられている。またここでは例年四月十三日の湯登神事のあと、夜に入り「八撥(やさばき)行事」が行なわれ、翌々日十五日の「御田無」(例大祭)には、神輿渡御・八撥行事・早乙女の御田植式・紫燈大護摩・揚げ花などの行事がくりひろげられている。